プロフィール

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丸谷香

丸谷 香(まるたにかおり)

精神保健福祉士/社会福祉士/公認心理師

メンタルコーチ。元大学病院のMSW。就労・児童および産業分野でソーシャルワーク、心理カウンセリングなどに従事。
現在は、経営者、個人事業主、専門職向けのコーチングのほか、障害福祉事業所の組織開発、対話型発達障害研修などを行う。

〈経歴〉

2000年日本福祉大学卒業 社会福祉士資格取得
神戸市内の病院にソーシャルワーカーとして勤務
2005年精神保健福祉士資格取得
2011年オーストラリアに留学
NLPマスタープラクティショナー取得
2013年労働局へ転職
2015年独立
医療・障害福祉事業所を中心に、コーチング・カウンセリングなどの個別セッションのほか、法人の組織開発プログラム、コンサルテーションなどを行なう
2018年公認心理師資格取得

コーチング・カウンセリングの仕事を始めた理由

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高校〜大学の頃までの私

高校生の頃、ブラックマンデーのことを知って社会構造に興味を抱きました。
自分が生きている世界は末端で、社会に踊らされているんだという感覚を覚えました。
大学は社会福祉学部に進みました。
福祉に興味があったわけではなく、それが社会学であり、社会保障の一環であることを知ったからです。
誰かのためになることをしようと思ったわけでも、誰かの役に立ちたいと思ったわけでもありませんでした。
ただ、社会の中でどう生きていくのかということに興味がありました。

福祉を学んで、興味は個人ではなくより社会に寄っていきました。
この社会からこぼれる人がいる、うまく馴染めない人がいる、生きづらさを抱える人がいる、
人生の途中から福祉の対象になる人がいる。
私の目には、「福祉」という世界にいる人たちは「社会」とは違う人たちで、
そういう世界に入らないためにみんなが努力しているように映っていました。

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神戸の病院に就職

大学を卒業して、神戸の病院に就職しました。
福祉は縦割りで、対象が固定化されます。
でも病院には、高齢者も障害者も貧困問題も虐待も、いろんなケースが集まります。
そして生活問題が暴露される初めての場所でもあるからです。

望んでいた病院での仕事は、楽しくもあったし、しんどくもありました。
私は、「わからない」が言えませんでした。
「セカンドチャンスはない、だからこの1回で成果を出さないと価値がないとみなされる」
そう思い、毎日ビリビリしていました。
自分の部署に通じる非常階段のドアを開ける前、心の中でいつも鎧を身につけ、
傷つかないように、攻撃されても大丈夫なように、みんなの前で笑えるようにしていました。
それでも上司や同僚にはとても恵まれ、夜遅くの面談を終えた後は、くだらない話をしながら笑いあっていました。
大学病院は大きな組織で、条件的にはとても満たされていました。
でもずっと鳥かごの中に入れられているようでした。
このかごの中だったら自由に飛んでても大丈夫だよ、でもかごからは出ちゃいけない、
このかごの中で元気にお利口にしていてね、と言われている感覚でした。

病院を離れ、障害者の就労支援へ

病院以外にも、軽度の知的や発達障害を持つ人の相談と、
うつ病で仕事を休職している人の復職トレーニングをするセンターでも仕事をしていました。
そこでは、うつになり休職する企業戦士たちの相談を受けていました。
シビアな世界に生きている人たちを前に、経済活動のことを何も知らない無知で無力な自分を突きつけられました。

ずっと細い崖の上を歩いている、気を抜いたら、一歩間違えたらこの崖の下に転げ落ちてしまう、
だからものすごく集中して、緊張して、毎日を過ごさないといけない。
失敗しないように、この世界からこぼれ落ちないように。
発達障害やメンタル不調の人たちと関わって、彼らが感じていた世界と、仕事をしている自分のイメージがそんなふうに重なりました。

私はきっと、この世界にフィットしやすいように生まれてきたんだろう。
極端な生きづらさを感じることもなく、無難に、レールから外れないように上手く振る舞える、そう思っていました。
おそらくそれは恵まれていたことなんだろうけど、だからこそとても呼吸がしづらいような、そんな感覚を持ちながら毎日を過ごしていました。

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結婚、そして離婚を経験

結婚した人は医師でした。私たちはとても仲が良い夫婦でした。
冗談を言い合って、笑いあって、遊び合う、とても楽しい関係でした。
けれどお互いの気持ちを話し合ったり、感情をぶつけ合えるほど深い関係にはなれませんでした。
お互いが見ている未来が全然違うのに、気づかないふりをし、
すれ違う生活とずれていく気持ちを無理やり重ねようとしてもがいていました。
大好きだった。でも、家族にはなれない二人でした。

周りのみんなは言いました「もったいない」
ビジュアルも、ステイタスも、お金も、すべてがある生活の何が不満なのか、これ以上の何を欲しているのか?と。
そのときの私は、自分の心の奥にある感情を上手に言葉にできませんでした。
だから誰にも伝えられなかったし、理解してもらえる人はいなかった、そう思っていました。

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海外生活

離婚を機に仕事を辞めました。
日本を出たとき、不思議なことにホッとしました。
身体が解れて、ようやく自分で居られるような気がしました。

その国の人たちは、みんなが自分自身にオープンでした。
人とは違うかもしれないけど、これが自分なんだと話し、自分を認めているようでした。
その国の人たちは生きることを楽しんでいました。
大切なものが何で、誇れるものが何かをちゃんと知っていました。
自分のことを言葉にして、人の言葉も大切にしていました。
違う国の、違う言葉の、違う肌の色をしている人たちの中で、私はようやく自分を見つめることができました。
今まで歩いてきた道を、自分で決めたことを、やっと自分で認められたような気がしました。

日本では認められなかったキャリアが、外国では評価されました。
この国でソーシャルワーカーをやらないか? エージェントを通して移民弁護士にそう持ちかけられました。
収入も社会的地位も、職種の有用性も日本とはまったく違う、比にならないくらいに高い、
そういう世界に来ないか?と。
とてもとても悩みました。
…私はまだソーシャルワーカーがやりたいんだろうか?
自問自答を繰り返していました。

本当にやりたいことが見つかる。そして帰国

やりたいことが変わっていました。
箱や場所にとらわれず、もっと自由な働き方をしたくなっていました。
この国の人たちみたいに、人生を楽しむ生き方をしたくなっていました。
心の奥底ではそんな自分に気づいていたけど、認められませんでした。
大学を移ってまで望んだことを変えるのは、自分の今までを否定するような感じがして怖かったのです。

自分に嘘をついているほうが楽で、心の中の本当を見ない方が安全でした。
だけど本当はずっとずっとしんどくて、もやもやした不全感を抱えていました。

やりたいことは見つかっていました。
患者さんとお話をしているときに、“ふっとかかる感覚”“すうっと引き込む感覚”
それが仕事にできたらいいなと思っていました。
でもそれをどうやって仕事にするのかまったく見えず、細い細い糸をつないでいくような感覚でした。
探っていく中で出会ったのが「コーチング」でした。
あぁこれならできる、叶えられる、そう思いました。
自由に自分らしい生き方をしよう、それが実現できる仕事を探ろう、と決めて日本に戻りました。

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病気になって気づいたこと

やりたいことを形にしていく一方で、生活の手段としての仕事は続けていました。
一旦は大学病院に戻りましたが、労働市場を学ぼうと思い、たまたま募集していた労働局の試験を受けて、採用されました。図らずも、国家公務員という立場になってしまいました。

仕事はとても楽でした。給与も待遇も、とても恵まれていました。
でもそこにいる自分自身には違和感しかありませんでした。毎日毎日息苦しさを感じていました。

私の心より先に、身体が悲鳴をあげました。
ベッドから起き上がれないほどの身体の痛みとしんどさが急に襲ってきました。
治らないと言われている病気の名前を告げられて、目の前が真っ暗になりました。
どうやって生きていこうか…頭の中で絶望的な思考が巡りました。
大学病院の主治医も、前の上司も「大学病院に戻ってきたら?」と勧めてくれました。
それが一番賢い選択のように思えました。

救ってくれたのは前の夫でした。
積極的な治療を渋る私を見兼ねて、主治医がセカンドオピニオンを勧めてくれたのです。
患者として彼に会うのは嫌でした。
診察室に入ると患者という立場で初めて見る医師としての彼がそこにいました。
彼はこう言いました。「治るよ。大丈夫」。
その一言が私を救ってくれました。
治るならがんばろう。そう思ってちゃんと治療に向き合えました。

仕事を辞める決断もできました。
「身体がこんなに悲鳴をあげているのに、まだ聴いてあげないの?」そう言われて気づきました。
私の身体の声を、誰よりも私自身が聴いてあげていませんでした。
身体と心のつながりを体感しました。そうしてやっと仕事を辞めることを決めました。

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フリーランスで仕事をしていく

病気を抱えながら生きていく道としては賢くはないかもしれません。
でも、自分のこころと身体を大切にする働き方、それ以外の選択肢が思い浮かびませんでした。
人に誇れる何かがあるわけでもなく、人に伝えたい何かがあるわけでもありません。
ただ、自分らしく生きていく、そのための手段として起業を選びました。

自分らしく生きていくのは思ったより大変でした。
言いようのない恐怖や、打ち明けられない悲しみがたくさん襲ってきました。
今まで会ったことのない人に出会って、抱いたことのないたくさんの感情を持ちました。

今、私の周りには自分らしく生きている人がたくさんいます。
みんな楽しそうに、おもしろそうに、イキイキと仕事をしています。
不安に苛まれたり、思うようにいかない現状に抗ったりしながら、自分らしくチャレンジしている人たちばかりです。

コーチングやカウンセリングという仕事

コーチングやカウンセリングはメンタルが弱い人が受けるもの。そんな風潮が日本にはあります。

海外ではパフォーマンスを上げるための方法の一つとして使われています。
コーチングやカウンセリングを受けるのは、自分自身や課題に向き合い、挑戦しようとする勇気と強さがある人です。チャレンジしているからこそ、壁にぶつかり、立ち止まり、心が折れそうになる、それでも前に進もうとしている人です。

自分らしく生きている人が増えたら、世の中はもっと明るくなります。みんながみんなに寛容になります。
上司が自分らしく自信を持って生きていたら、それは部下にも伝わっていく。
人を支援している人が、自分らしく健やかに生きていたら、支援を受ける人にも伝わって、幸せが広がっていきます。

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最後に

望んでつかんだはずの今を生きているはずなのに、どこか物足りなさや不全感がある。
やりたいことをやっているんだけど、もう一歩踏み込むことに臆病になっている。
やりたくてがんばってきたこれまでを手離すことが怖くて、新しい自分になれない。
…昔の私みたいに、そんなふうに感じている人が実は多いのかもしれない…
たくさんのクライアントさんと関わって、そう思いました。

ステイタスもかっこよさもない今だけど、
それでも、私は今の自分に心から○をつけてあげられています。
みんなが自分らしく、今の自分に○をつけてあげられる、
そんな人生に踏み出すためのお手伝いができるのなら、それはとてもしあわせなことだと思っています。
そういう人が増えていけば、世界はしあわせに満ちていきます。
そう信じて、このお仕事を続けています。

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